「正しい街」4

3月末に生まれた私は、高校1年の時にはまだ15歳であった。(そのため2学期末にバイクの無免許運転で補導された時にも当時の少年法の年齢規定により家庭裁判所では不処分扱いとなった)当時の私は険悪だった父親の元を離れることぐらいしか将来の目標を持っておらず、16歳になると同時にアルバイトを始め、その資金を得ようとしていた。前述した「ダイエー原店」内のゲームコーナーは改装し、大幅にビデオゲームを減らしてファミリー向けの「屋内遊園地」と姿を変えていた。私はそこの求人広告に応募し、面接の後に店員となった。研修を終えて初日にやった仕事は、当時人気があったエレメカコズモギャングス(ナムコ)」の修理であった。当然、ゲーム機の修理は未経験であったが、私が工業高校機械科の学生ということで任されたのである。このゲームは、プレイヤーの手前にあるコンテナを奪おうと筐台奥から迫り来るモンスター(コズモ)を光線銃で狙い撃つゲームで、同社の歴史的作品「パックマン(1980年)」と同様、コミカルなキャラクターによるデモンストレーションが売りであった。また、ピーク時には1日のインカムが1万円を超えることも珍しくないほど好評を博していた。
故障はコズモの内1体が撃たれても反応せず、もう1体の動きが悪いというものであった。私はとりあえずマニュアルを読み、撃たれても反応しない方はセンサー部不良だと見当を付け、コネクタのハンダがクラッキングしているのを発見し、それを解消した。もう1体の故障は、コズモの足元にはローラーがあり、それについたクランクがコズモのギミックを生んでいたのだが、これを固定するワッシャーが紛失していたために単なる前後の動きしかしなくなっていたので工具箱の下に埋もれていた固定抵抗の「足」を使ってクランクを仮止めすることで不具合を解消した。
私に修理を命じたマネージャーは、正直あまり期待していなかったようだが、ともかく稼ぎ頭のマシンが復活したことを喜び、以後私はメンテナンス要員として重宝された。
その後、ボウリング場や年齢を偽ってパチンコ店で働いたりしたが、基本的に娯楽産業を選んで渡り歩いて働いた。そうして、高校の2年生目はバイトと遊びに費やし、留年が決定した。
1990年、2度目の2年生の夏休みに私は東京に単身赴任していた親父に呼び出されて1週間ほど上京することになった。親父に顔を合わせることにはまったく気が進まなかったが、ハイスコアプレイヤーとして、また店員としてゲームセンターに惹かれていた私は、東京のゲームセンターを見に行くついでだと考えることにした。
東京でも相変わらず、私と親父はほとんど会話を交すことは無く、連れて行かれた新宿西口思い出横丁の焼き鳥屋で高校を卒業する意思があるのかを問われ、それに肯定の返答を返しただけであった。
楽しみにしていた東京のゲームセンターは、率直に言って「期待外れ」であった。新宿、巣鴨高田馬場、神田と巡ってみたものの、どの店舗もいわゆる「インベーダーハウス」然な店舗ばかりで、「ハイスコア集計店」とされている店舗もいくつか訪れてみたが、「このマシンコンディションでハイスコアを出しているとは到底考えられない」という店が少なくなく、福岡のハイスコアプレイヤーが抱いていた東京のプレイヤー(とハイスコア集計誌)に対する不信感が私の胸の内で首をもたげ、居座ることになった。
1991年、前年の3月に実施された日銀の総量規制によりバブル景気が急速に崩壊して行く様が実感として感じられるようになっていた。
だが、アーケードゲーム業界においてはやや事情が異なっていた。一時の勢いは衰えつつあったが相変わらずクレーンゲームは高インカムを記録していたし、メダルゲームコーナーは「ワールドダービー」「ビンゴサーカス(1989年セガ)」「JOKER'S WILD (シグマ/IGT?)」「NEW PENNY FALLS(シグマ/Crompton)」が人気を博し、ビデオゲームコーナーにおいても「テトリス」「ファイルラップ」「雷電(1990年セイブ開発)」「ファイルファイト(1989年カプコン)」「スーパーリアル麻雀P3(1988年セタ)」「ヴォルフィード(1989年タイトー)」「ジャンボ尾崎のスーパーマスターズ(1989年セガ)」「コラムス(1990年セガ)」「麻雀学園(1988年カプコン)」といったロングヒットタイトルが豊富にあり、売上に陰りを見せることはなかった。
私達が通っていたゲームセンター「オートレストランサーカス荒江店」も、そうした好業績の後押しもあり、改装して「アミューズメントスポットサーカス」へと姿を変えることとなった。装いを新たにした店舗の入り口には「R-360(1990年セガ)」が設置され、私達を驚かせた。新たに整備された同店の2Fはすべて24インチディスプレイモニタの筐体に統一され、カウンターの後ろには私達の念願であったハイスコアボードが設置されていた。
そして同年の3月、やがてゲームセンターの風景を一変させることになったゲームがリリースされる。カプコンの「ストリートファイターII」である。