「正しい街」4
3月末に生まれた私は、高校1年の時にはまだ15歳であった。(そのため2学期末にバイクの無免許運転で補導された時にも当時の少年法の年齢規定により家庭裁判所では不処分扱いとなった)当時の私は険悪だった父親の元を離れることぐらいしか将来の目標を持っておらず、16歳になると同時にアルバイトを始め、その資金を得ようとしていた。前述した「ダイエー原店」内のゲームコーナーは改装し、大幅にビデオゲームを減らしてファミリー向けの「屋内遊園地」と姿を変えていた。私はそこの求人広告に応募し、面接の後に店員となった。研修を終えて初日にやった仕事は、当時人気があったエレメカ「コズモギャングス(ナムコ)」の修理であった。当然、ゲーム機の修理は未経験であったが、私が工業高校機械科の学生ということで任されたのである。このゲームは、プレイヤーの手前にあるコンテナを奪おうと筐台奥から迫り来るモンスター(コズモ)を光線銃で狙い撃つゲームで、同社の歴史的作品「パックマン(1980年)」と同様、コミカルなキャラクターによるデモンストレーションが売りであった。また、ピーク時には1日のインカムが1万円を超えることも珍しくないほど好評を博していた。
故障はコズモの内1体が撃たれても反応せず、もう1体の動きが悪いというものであった。私はとりあえずマニュアルを読み、撃たれても反応しない方はセンサー部不良だと見当を付け、コネクタのハンダがクラッキングしているのを発見し、それを解消した。もう1体の故障は、コズモの足元にはローラーがあり、それについたクランクがコズモのギミックを生んでいたのだが、これを固定するワッシャーが紛失していたために単なる前後の動きしかしなくなっていたので工具箱の下に埋もれていた固定抵抗の「足」を使ってクランクを仮止めすることで不具合を解消した。
私に修理を命じたマネージャーは、正直あまり期待していなかったようだが、ともかく稼ぎ頭のマシンが復活したことを喜び、以後私はメンテナンス要員として重宝された。
その後、ボウリング場や年齢を偽ってパチンコ店で働いたりしたが、基本的に娯楽産業を選んで渡り歩いて働いた。そうして、高校の2年生目はバイトと遊びに費やし、留年が決定した。
1990年、2度目の2年生の夏休みに私は東京に単身赴任していた親父に呼び出されて1週間ほど上京することになった。親父に顔を合わせることにはまったく気が進まなかったが、ハイスコアプレイヤーとして、また店員としてゲームセンターに惹かれていた私は、東京のゲームセンターを見に行くついでだと考えることにした。
東京でも相変わらず、私と親父はほとんど会話を交すことは無く、連れて行かれた新宿西口思い出横丁の焼き鳥屋で高校を卒業する意思があるのかを問われ、それに肯定の返答を返しただけであった。
楽しみにしていた東京のゲームセンターは、率直に言って「期待外れ」であった。新宿、巣鴨、高田馬場、神田と巡ってみたものの、どの店舗もいわゆる「インベーダーハウス」然な店舗ばかりで、「ハイスコア集計店」とされている店舗もいくつか訪れてみたが、「このマシンコンディションでハイスコアを出しているとは到底考えられない」という店が少なくなく、福岡のハイスコアプレイヤーが抱いていた東京のプレイヤー(とハイスコア集計誌)に対する不信感が私の胸の内で首をもたげ、居座ることになった。
1991年、前年の3月に実施された日銀の総量規制によりバブル景気が急速に崩壊して行く様が実感として感じられるようになっていた。
だが、アーケードゲーム業界においてはやや事情が異なっていた。一時の勢いは衰えつつあったが相変わらずクレーンゲームは高インカムを記録していたし、メダルゲームコーナーは「ワールドダービー」「ビンゴサーカス(1989年セガ)」「JOKER'S WILD (シグマ/IGT?)」「NEW PENNY FALLS(シグマ/Crompton)」が人気を博し、ビデオゲームコーナーにおいても「テトリス」「ファイルラップ」「雷電(1990年セイブ開発)」「ファイルファイト(1989年カプコン)」「スーパーリアル麻雀P3(1988年セタ)」「ヴォルフィード(1989年タイトー)」「ジャンボ尾崎のスーパーマスターズ(1989年セガ)」「コラムス(1990年セガ)」「麻雀学園(1988年カプコン)」といったロングヒットタイトルが豊富にあり、売上に陰りを見せることはなかった。
私達が通っていたゲームセンター「オートレストランサーカス荒江店」も、そうした好業績の後押しもあり、改装して「アミューズメントスポットサーカス」へと姿を変えることとなった。装いを新たにした店舗の入り口には「R-360(1990年セガ)」が設置され、私達を驚かせた。新たに整備された同店の2Fはすべて24インチディスプレイモニタの筐体に統一され、カウンターの後ろには私達の念願であったハイスコアボードが設置されていた。
そして同年の3月、やがてゲームセンターの風景を一変させることになったゲームがリリースされる。カプコンの「ストリートファイターII」である。
「正しい街」3
当時私達が溜り場にしていたゲームセンターは「オートレストランサーカス荒江店」と言い、その名の通り以前はドライブインであった。店内の奥にはバーカウンターと厨房があり、店番の老婦人と老人はレストラン時代のマスターとウェイトレスであったらしい。このような事情からあまりゲーム機に詳しくなかった二人に代わり、私が簡単なマシンメンテナンスを代行することもしばしばあった。
このゲームセンターの運営をしていたのは、「サービスゲーム」という会社で、この名前でピンとくる業界関係者も少なくないと思うが、セガの前身である「サービスゲームス」のディストクリストマネージャーであった児玉氏が独立して興した会社であった。そのため、店内はセガ社のマシンを中心に構成されており、また最新機種が常に導入されていた。そうした環境に触れられたのは、後にセガ店舗で勤務する私にとって貴重な経験となった。
私は高校に入学してすぐにこの店の常連客となり、徐々に友人を増やしていった。この店で出来た最初の友人「K」は、私とカプコンのシューティングゲーム「1943ミッドウェイ海戦(1987年)」でハイスコアを競い合あっていたが、やがて二人同時プレイでのハイスコアを狙うようになった。これは、単に二人とも互いの順番待ちをするのが嫌だったということもあるが、当時のカプコンシューティングは1985年の「エグゼドエグゼス」、1986年の「サイドアーム」、そして1988年の「ロストワールド」など、二人同時プレイにフォーカスしたゲーム構成・レベルデザインがなされており、その方がより楽しめた、という事情もあった。*1
「K」とはその後の1988年暮れにセガからリリースされた「ゲイングラウンド」ではパートナーとして、「テトリス」ではライバルとして競い合うことになる。また、「K」は非常にファッションセンスにたけた人間であった。小学生時代を制服で過した私は福岡の同級生達と比べ私服のセンスにコンプレックスがあったため、彼を手本にし、アドバイスを受けることでそれを克服しようと試みた。
1989年の福岡市は空前の好景気に沸いていた。全国的にもバブル景気に沸いていた時期であるが、福岡市はそれに「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」が開催されるという事情が重なっていた。繁華街のゲームセンターは真新しい「アミューズメントスポット」へと姿を変えていった。私達はそうした店舗にも足を伸ばすようになった。そこではカップルが「ファイルラップ(1987年ナムコ)」で嬌声を上げ、メダルゲームコーナーでは「ワールドダービー(1988年セガ)」でフィールドを自在に駆け回るリアルな馬の動きにに皆が驚き、次いで虜となり、プライズゲームコーナーではアンパンマンなどのキャラクターヌイグルミを獲得しようと老若男女が100円玉を注ぎ込んでいた。
私はどちらかといえば、いわゆる「インベーダーハウス」然としたの店舗よりも、繁華街にある煌びやかな店舗の方が好きであった。娯楽産業である以上、時代に合わせて変化することは当然で、停滞は即ち衰退を意味すると思っていたし、これは現在でもそう思う。それに、この時期から私を夢中にしたピンボールは繁華街の店舗に集中して設置されていたという事情もあった。しかし、ハイスコアを狙う環境としては繁華街の「アミューズメントスポット」は適していなかった。私にはそれがどうにも不満であった。
ハイスコアを狙う環境を求めて、私達は当時福岡での、いや、全国的にもトップレベルのゲームプレイヤーが集っていた「モンキーハウス本館」に向かった。当時は「メタルホーク(1988年ナムコ)」で「G.M.C.-えるす」氏が、「ウイニングラン(1989年ナムコ)」で「G.M.C.-HSA」氏が、まさに神業としか形容のしようがないプレイを繰り出していた。失敗を恐れずに攻め、失敗しても諦めたりせずにすぐさまリトライするハイスコアプレイヤーのプレイスタイルを初めて目の当たりにし、私は自分のプレイの甘さを思い知らされた。それまで私は効率的なスコアパターンの構築などをあまり重視せず、動体視力と反射神経にものをいわせて「なんとなく」スコアを出していた。それでは全国1位を狙うプレイヤーには到底敵わぬのだと私はこの時に悟った。パターンを突き詰めた「G.M.C.-やちょ」がプレイする「ロンパーズ(1989年ナムコ)」は、私のプレイするそれとはまったく別のゲームと言ってもよかった。
*1:シューティングゲームが衰退が嘆かれて久しいが、その大きな原因は良く言われるように「難度の上昇」にあるのではなく、家庭用ゲームで育ったユーザーの嗜好との乖離にあると私は思う。任天堂のファミリーコンピューターなどで「友達と遊ぶツール」としてのビデオゲームの姿に慣れたユーザーは、一人でしか遊べないシューティングゲームに魅力を感じないのだ。上記したカプコンシューティングのように、二人同時プレイにフォーカスしたシューティングゲームはその後ビデオシステム(彩京)が継続的にリリースし、安定したインカムを記録していたが、現在はそれも途絶えてしまった。近日リリースされたケイブの「虫姫さまふたり」がタイトル通り二人同時プレイに注力した作品になるのではとささやかな期待を寄せていたのだが、出荷された作品がどのような内容であったかは、プレイした皆様がご存知の通りである
「正しい街」2
ゲームセンターとは直接的な関係無い話なのだが、私と同人誌(即売会)との係わり合いをここで少し説明しておく。前出の通り、鹿児島大学付属中学校への通学を断念した姉は、その後勉学の代わりに趣味のマンガ創作に傾倒していった。中学校では同好の士を募り、マンガ同好会のようなものを設立していた。(これには写真など他の文化部活動を行う部員も含まれていた)
高校に進学し、親父が東京へ単身赴任すると姉は、通っている女子校の同級生達で同人誌即売会主催団体を立ち上げていた。即売会というのは、机や椅子の設営、人員の整理などの男手も必要であったので私と私の不良仲間もそれを手伝うことになった。当然、私の不良仲間にはまったくオタク趣味に理解が無い者も居たが、「スタッフ弁当が食える」と「女の子が集まるイベント」という甘言をエサにした。*1その流れで、当時の福岡市内における同人誌即売会主催団体最大手、「ACST(現コミックネットワーク)」等に私も顔を出すようになった。
当時は「キャプテン翼」「聖闘士星矢」によるいわゆる「やおいバブル」の真っ只中で、各地の即売会主催団体は爆発的に増加したサークル参加申し込みを処理するため、事務作業の効率化を迫られていた。東京の「コミックマーケット準備会」では故岩田次夫氏によって事務作業の電算化が進められていたが、福岡ではそれがシステムソフト(当時)の石川淳一氏によって進められていた。余談であるが「現代大戦略(大戦略シリーズ)」の生みの親としても知られる石川氏は、その後独立して「同人誌即売会をやろう!」というゲームを手がけている。姉は、システムソフトから払い下げ品のPC-98を譲り受け、私がそのPC-98にてLotus1-2-3と一太郎を使用しサークルの分類、住所録の整理を行うことになった。幸いにして、私の通っていた工業高校の図書館にはこれらのビジネスソフトを使いこなすための資料が豊富にあり、またそれに精通した教員も居た。それとこれは私見だが、同人誌即売会の運営というのは、今も昔もデータベース運用が要だと思う。
当時、メインスタッフが高校生で占められている即売会主催団体というのは珍しく(現在もそうかもしれないが)、姉の団体はアニメ雑誌「OUT」の取材を受けたりもしていた。私がいわゆる「オタク業界」に本格的に足を突っ込むことになったのは、こうした姉の影響によるところが大きかった。
「正しい街」1
私の人生を振り返ると、「流転」という言葉がもっとも的しているのではと思うことがある。生まれたのは熊本県であったが親父の仕事の関係で宮崎、熊本、鹿児島、福岡と移り住んできた。
覚えているのは2度目の熊本からである。物心ついてから小学校に上がるまでは熊本市内の水前寺公園の近くに住んでいた。幼稚園はカトリック系の「マリア幼稚園」という所で、私と一学年上の姉は日曜学校にも通っていたが両親はクリスチャンというわけではなかった。
姉が小学校に上がる時、校区内の小学校が第2次ベビーブーム世代 受け入れの為に増築をしている最中で、校舎の半分がプレハブでプールもないということを知った親父が「こんな状態では我が子を通わせられぬ」と、憤慨し熊大附属小学校に姉を受験させることにし、姉はその期待に応えて見事合格した。
翌年、私も姉に続いて附属を受験することになり、そして合格した。当時はまだ「お受験ブーム」が本格化する前であったが、2年連続で附属の合格者を出したということで、姉と私が通っていた幼稚園が「お受験対策校」として話題になったのだという話を成人してから耳にした。(伝聞なので真偽のほどはわからないが)
姉の方はともかく、私は受験勉強をしたわけでもそれを目標としていたわけでもないので、合格して附属に通うことに特段意味があると思ったことはなかった。ただ、両親や親族が喜んでいた事が記憶にあるだけである。
そうして通っていた附属小学校も、1年通っただけで鹿児島に転校することになる。鹿児島という土地は進学校として有名なラ・サール校があることもあり、初等教育のレベルが非常に高い土地であった。少なくとも私の幼少期はそうであった。
姉はこの土地でも非常に高い成績を残した。私も姉の背中を追う形でそれなりの成績を残した。が、このころから親父との関係にしばしば軋轢が生じるようになっていた。
やがて自転車を買い与えて貰うと、学校から帰るやいなやペダルを漕ぎ、夕暮れまで帰らない日々を送った。お気に入りは鹿児島市南部にある「慈眼寺公園」敷地内の沢を登ることと、谷山港に行き、そこを出入りする船を眺めることであった。特に、何年か毎に寄港するクイーンエリザベスII世号の優美な姿と、盛大な寄港パーティは鮮明に記憶している。
初めてアーケードゲームの虜になったのは、鹿児島市を南北に貫く産業道路沿いにあったオートドライブイン(トレーラー用の広大な駐車場に自動販売機が並べて置いてあるだけの)脇のゲームコーナーでカギのかかっていないテーブル筐台を発見した時であった。入っていたのは、フェニックスというシューティングゲーム。発見したのが夏休みであったので友人と共に、連日、日が暮れるまでゲームに興じた。サービスボタンを押せばクレジットが入るなど、ゲーム機の構造もこの時に覚えることができた。(とても誉められた話ではないのだが)
やがて私は鹿児島市中心部に位置する照国神社に拠点を置くボーイスカウト(カブスカウト)に入団し、毎週日曜日は鹿児島一の繁華街、天文館に足を運ぶようになった。天文館のデパートには最新のゲーム機が並び、私はたまに自宅がある谷山までの電車賃(路面電車だった)でゲームを遊び、徒歩で自宅まで帰ったりした。
小学校も高学年になると、私でも自分の成績に気を配るようになっていた。姉は相変わらず素晴らしい成績を残していたし、私もなんとなく「このままラサールを受けることになるのだろうな」と考えていた。当時鹿児島県下で実施されていた「県番テスト」という学力試験での私の成績は、なんとかラサールの合格圏内を指していた。
姉が鹿児島大学附属中受験(ラサールは男子校なので、女子は附属中を目指すのが主流であった)のため、放課後学校で自習会を開くようになると、私もその後ろで参考書を開くようになった。今にして思えば、これが私の人生における最初で最後の「受験勉強」であった。
姉が難関を突破し、附属中に合格してほどなく、親父に転属の事例が出た。親父は単身赴任を選択せず、一家で福岡へ移り住むことになった。姉と母親は合格したばかりの附属中に入学辞退を申し出に行き、学校関係者から転校を翻意出来ないのか随分説得されたらしい。しかし、親父の考えは変らず、姉は「開校以来初めての入学辞退者」となった。姉は、未だにこのことで胸にしこりを持って居る。
当然であるが、私の「受験勉強」も徒労に終ることになった。そのこと自体で私が落胆することはあまりなかったが、転校先の福岡の学校に制服が無く何を着て学校に行けば良いか分からず戸惑い、また授業では鹿児島の小学校でとっくに済ませた箇所を受けねばならず、学習内容のレベルにギャップが有りすぎて急速に勉強への意欲を失って行った。このころから、授業中はほとんど寝ているか、他の本を読んで過ごすようになった。
福岡で住んでいた家の近所には、今は一連の再建計画の影響で閉店した「ダイエー原店」があった。私が福岡に来た当時、ここの3Fの1/3がゲームコーナーになっており、主にナムコと任天堂の筐台が置かれていた。ちょうど「ギャプラス」がリリースされたばかりのころで、いつもトッププレーヤーのプレイに人だかりが出来ていた。私は、鹿児島では高人気のあまりプレイできなかった「ゼビウス」がここでは旧作として空席がちであったので、暫くは主にそれをプレイしていた。後で知ったことであるが、当時福岡では「G.M.C.-えるす」といったトッププレーヤーが続編となる「スーパーゼビウス」で全国にその名を轟かせていたため、無印のゼビウスは「今更プレイする価値のないゲームである」とする空気があったらしい。
当時、G.M.C.-えるす氏らのスーパーゼビウス攻略の場であった長尾バッティングセンター(2006年撮影)
ともかく、ダイエー原店は私のお気に入りの場所になった。小遣いが無くても、本屋や玩具店の試遊機で遊べば、いくらでも時間を潰すことができた。晴れた日は新しく出来た友人と草野球をし、暑すぎる日や雨の日はダイエーか近所の大型書店で過した。
中学生になった頃には、私は校区内のゲームセンターでも「ゲームの上手なグループ」の一員になっていた。たまに西新という繁華街まで足を運び、シューティングゲームをプレイしている最中に後ろを見ると人だかりが出来ている、ということがごく当たり前のことになっていた。
高校に進学する頃には、完全に進学への意欲を失っていた。既に姉が名門私立校に通っていたので、私が大学まで進学する経済的余裕は無いものだと勝手に思い込んでいた。当時、親父とは断絶といっても良い関係で、進路について両親と話し合う場を持つことはなかった。実際には、我が家の経済状態はそれほど悪くは無かった。という事を知ったのは、姉が大学進学の際に奨学金制度を利用しようとした際に、親父の年収が奨学金貸与資格以上の年収があったため申請が受理されなかった時であった。
そのため、高校は「自宅から一番近い」というだけの理由で工業高校を選択した。真面目に通ったのは最初の1年だけで、それでも殆ど授業を真面目に受けることが無かったために成績が急降下して行き、私は幾度と無く職員室へ呼び出された。高1の2学期には、無免許でバイクに乗っているところを補導され、1度目の停学処分を受けた。これを境にますます学校から足が遠のいていった。
学校以外の私生活では「ゲームが上手なグループ」で本格的に徒党を組んで遊ぶようになった。1985年の「ハングオン(セガ)」次いで1986年にリリースされた「アウトラン(セガ)」以降の体感ゲームブームは各地のゲームセンターに新たな顧客を呼び込む事に成功したが、それは同時に「不良の溜まり場」という負の側面を再度浮かび上がらせることにもなった。ヤンキーの暴力には、暴力で対抗するしかない。ゲームの上手なグループでゲームセンター内の「悪いヤンキー」を排除する必要に駈られていたのだ。折りしも当時は福岡市(雑餉隈界隈)をモデルにした不良マンガ「BE-BOP-HIGHSCHOOL」のブームが起きていた事もあり、福岡の不良学生はそこここで下らない小競り合いを繰り返していたという背景もあった。
私達も、当時は褒められた学生態度ではなかったが、人がハイスコアを競っている横でカツアゲやシンナーを吸引するヤンキーが居るのは非常にウザったかった。私達は(自分達も他人から見れば不良学生なのだが)一応のケジメとして「制服での喫煙」「ゲーム台の占拠」といった不良行為を自粛し、店内の治安を維持することで店舗側と良好な関係を築いていった。
そんなことを続ける内に、ヤンキーでもゲームの好きな連中が徐々に仲間になっていった。
そして、縄張りとなるゲームセンターも増えていった。
プロローグ。
私はいつものように、コマ劇場からでる人の流れを店先でぎこちない笑顔を作りながらただ見送っていた。まだこの店での仕事に慣れていなかった時は、この人の流れが潜在的な顧客と思い、ただ見送っているのはもったいないと感じていた。学生時代にバイトしていたショッピングセンター内の屋内遊園地では、ご年輩の方々がクレーンゲームに興じる光景が日常だったからだ。
いま、目の前を通り過ぎている方々も、ひょっとしたら近所のクレーンゲームで獲得したヌイグルミを自家用車のリアウィンドゥに並べる趣味をお持ちなのかもしれない。だが今は慣れない歌舞伎町で迷ったりしないよう、ガイドさんの旗を先頭に靖国通りに停車している観光バスに向うことと、先ほど観劇したスタアの話題に夢中で、クレーンゲームに100円玉を投入して頂ける素振りを見せることはほとんどなかった。これが物販であれば、少しでも足を止めた方にセールストークを繰り出すのだが、あいにくとこの商売は「確実なこと」が何一つ無いのが特徴だ。景品が取れるまで、又はお客様が諦めるまでどれくらいの金銭・時間的コストを費やさねばならないのか、店員とて保証することは出来ないのだ。また、ちょっとだけ…でお客様に満足して頂ける可能性が低いことも私は承知していた。
「ああいう人達に歌舞伎町ってどう見えるんスかね?」
コマ劇場の中にある「フライキッチン峰」という洋食屋で良く一緒になる客引のオヤジに話かけてみると、オヤジは加えていたキャスターを足元に捨てようとして、私の持つチリトリに一瞬目配せして手を止め、私が促すと今にも擦りきれそうな革靴の底で吸い殻を踏み消してから、こう語り出した。
「どう、ってもなあ。ただ100mそこそこの一番街通ってコマで舞台観て帰るだけだろ?別にオネェチャン居る店行くわけでないし。ただ俺が(客)引いてるの見て「やっぱり歌舞伎町って怖いワ」なんつってる喜んでやがるババァも居るしよ、内心俺らみたいなのが居るのを楽しみにしてんじゃないかね。動物園みてえなもんだよ。差詰め、上高地*1のガラスの向こうにいるヤクザが上野のパンダだな」
じゃ、観光客の皆々様のご期待に応えてこようかね…と言い残してオヤジは自分の縄張りへと戻って行った。 人の流れが収まった頃合いを見計らって店先に散乱する吸い殻を拾い、自分で吸い殻をつるために店内のカウンターの陰に向かった。
在庫のヌイグルミが入った大袋をクッションにし、それに埋まるように体を預けてキャメルに火を灯した。カウンターの中には既に読み終えたマンガ雑誌しかなく、いささか活字中毒の気がある私はゲーム機の技術マニュアルを読みながら休憩時間を過ごすことにした。
この夏読んでおきたいアウトロー漫画名作100選
ナツ100参加者募集 終わりました。 - 酔拳の王 だんげの方をざっと眺めて。
経由:2006-08-07 - 絶叫機械+絶望中止
近代日本マンガ史におけるメインストリームであるアウトロー(ヤンキー)系マンガを、皆ことごとくスルーしているのはいかがなものか。ジャンルにとらわれず面白いマンガを読むのが「マンガオタク」の本分であろう。それとも「オタク系マンガを読む人間」=「マンガオタク」になってしまったのか。
ひょっとして「こち亀」がアウトロー漫画だった、ということすら彼らの認識の中には無いのではないか。
ということで怒りに任せてアウトロー系マンガ*1100選を選ぶ俺だ。
暫定リスト、随時メンテナンス(入れ替え)中。
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- 「BE-BOP-HIGHSCHOOL」きうちかずひろ
- 「湘南爆走族」吉田聡
- 「疾風伝説 特攻の拓」原作 佐木飛朗斗・作画 所十三
- 「BAD BOYS」田中宏
- 「ホットロード」紡木たく
- 「本気!」立原あゆみ
- 「カメレオン」加瀬あつし
- 「押忍!空手部」高橋幸慈(幸二)
- 「クローズ」高橋ヒロシ
- 「今日から俺は!!」西森博之
- 「ヤンキー烈風隊」もとはしまさひで
- 「ホーリーランド」森恒二
- 「エリートヤンキー三郎」阿部秀司
- 「シャコタン☆ブギ」楠みちはる
- 「工業哀歌バレーボーイズ」村田ひろゆき
- 「Let's ダチ公」原作 積木爆(立原あゆみ)・作画 木村和夫
- 「唇にパンク」笠原倫
- 「ろくでなしBLUES」森田まさのり
- 「ゴリラーマン」ハロルド作石
- 「硬派ガクラン八年組」しもさか保
- 「嗚呼!花の応援団」どおくまん
- 「名門!多古西応援団」所十三
- 「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志
- 「魁!男塾」宮下あきら
- 「バキ(シリーズ)」板垣恵介
- 「ガキでか」山上たつひこ
- 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」秋本治
- 「スケバン刑事」和田慎二
- 「ブラック・ジャック」手塚治虫
- 「あぶさん」水島新司
- 「子連れ狼(シリーズ)」原作 小池一夫・作画 (旧)小島 剛夕/(新)森秀樹
- 「読むと強くなる横綱漫画 ああ播磨灘」さだやす圭
- 「セニョール・パ」原作 高橋三千綱・作画 かざま鋭二
- 「GTO」藤沢とおる
- 「花のあすか組!」高口里純
- 「特攻天女」みさき速
- 「あばれ天童」横山光輝
- 「野望の王国」原作 雁屋哲・作画 由起賢二
- 「代紋TAKE2」原作 木内一雅・作画 渡辺潤
- 「サンクチュアリ」原作 史村翔(武論尊)・作画 池上 遼一
- 「静かなるドン」新田たつお
- 「獣のように」かわぐちかいじ
- 「拳児」原作 松田隆智・作画 藤原芳秀
- 「昭和極道史」村上和彦
- 「愚連隊の元祖万年東一」原作 山平重樹・作画 田中正仁
- 「空手バカ一代」(原作 梶原一騎・作画 つのだじろう 影丸譲也
- 「昭和柔侠伝 」バロン吉本
- 「失踪日記」吾妻ひでお
- 「はだしのゲン」中沢 啓治
- 「銭ゲバ」ジョージ秋山
- 「ナニワ金融道」青木雄二
- 「難波金融伝・ミナミの帝王」原作 天王寺大・作画 郷力也
- 「哭きの竜」能條純一
- 「カイジ(シリーズ)」福本伸行
- 「アドリブ王子」あかつきけいいち
- 「あしたのジョー」原作 高森朝雄・作画 ちばてつや
- 「アストロ球団」原作 遠崎史朗・作画 中島徳博
- 「アパッチ野球軍」原作 花登筐・原画 梅本さちお
- 「SLAM DUNK」井上雄彦
- 「バツ&テリー」大島やすいち
- 「ルーズ戦記 オールドボーイ」原作 土屋ガロン(狩撫麻礼)・作画 嶺岸 信明
- 「はみだしっ子 (シリーズ)」三原順
- 「NANA」矢沢あい
- 「じゃりン子チエ」はるき悦巳
- 「ストップ!!ひばりくん!」江口寿史
- 「覇王・愛人(中黒はハートの記号)」新條まゆ
- 「あばしり一家」永井豪
- 「ぼくんち」西原理恵子
- 「エロイカより愛をこめて」青池保子
- 「RAINBOW-二舎六房の七人-」原作 安部譲二・作画 柿崎正澄
- 「キャッツ・アイ(中黒はハートの記号)」北条司
- 「ルパン三世」モンキー・パンチ
- 「コブラ」寺沢武一
- 「ブラック・エンジェルズ」平松伸二
- 「殺し屋1」山本英夫
- 「闇狩人」坂口いく
- 「魔太郎がくる!!」藤子不二雄A
- 「ゴルゴ13」さいとう・たかを (さいとうプロ)
- 「力王」原作 鷹匠政彦・漫画 猿渡哲也
- 「The World Is Mine」新井英樹
- 「同じ月を見ている」土田世紀
- 「BANANA FISH」吉田秋生
- 「ファイヤーキャンディ」今村夏央(米倉けんご)
- 「カムイ伝」白土三平
- 「ハイティーン・ブギ」牧野和子
- 「ペリカンロード」五十嵐浩一
- 「まんがサガワさん」佐川一政(漫画指導 根本敬)
- 「ごくせん」森本梢子
- 「鉄コン筋クリート」松本大洋
- 「ありがとう」山本直樹
- 「AKIRA」大友克洋
- 「ダボシャツの天」政岡としや
- 「鮫肌男と桃尻女」望月峯太郎
- 「鍍乱綺羅威挫婀」澤田賢二
- 「ワイルド7」望月三起也
- 「リバーズ・エッジ」岡崎京子
- 「DEATH NOTE」原作 大場つぐみ・作画 小畑 健
- 「HEAVEN」GONTA(王欣太)
- 「魁!クロマティ高校」野中英次
- 「女帝」原作 倉科遼(司敬)・作画 和気一作
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